不器用ですから。(担当:香罹伽 梢)

 エプロンが嫌いだ。

 いや、この場で投げやりな切り出し方は良くない。正確には、エプロンを付けるという行為が苦手だ。

 出来て当たり前なカテゴリに入る料理を、さりげなく、何となく、ただ食べるものを作るためだけに台所に立ちたいのに、ここにエプロンを改めて引っ張り出して、よいしょと背中で結びつけると、如何にも「これから調理いたしますよ」感が出て嫌なのだ。

 気を引き締めるとか、ケジメとか、そういう気持ちの切り替えなら刃物一つ持てば付く。だが服が汚れるという件はごもっともなので、「ちょっと小腹が空いたからつまみでも」な雰囲気でやりすごせる前掛けを、速水もこみちっぽく腰に巻くことで我慢している。

 

 思えばエプロンに始まったことでなく、私は「改めて」という行為が苦手だ。馴れ合いが深い人ほど礼を言いづらいし、されると申し訳ないが困る。勇気とか希望とかそういう言葉を真正面から言われるとカユいし、失って初めてその大切さに気付くとか、いやフツーに失う前に気付けよとツッコみたくなる。そう言えば愛の告白とか、直に口で言ったことがない。

 要はまあ、性格がひん曲がっているとか人間不信とかそういう負の感情からではなく、単に慣れないのだ。もっと言えば、照れくさい。場数が少ないことは、無条件で苦手意識と結びつくものなのかもしれない。眩い言葉は普段使わない分、愛とか正義とか賞賛とか、受けるのも発するのもとにかくまごつく。

 

これが高倉健だったら某台詞一つでゴム長靴が履けなかろうと格好良く締まるのだが(同世代に伝わるとは思ってない)、残念ながらそんな目力は私にはない。しかし立場上、認めたり認められたり、褒めたり褒められたり、感謝したりされたり、時にはご立派な演説もどきで説得したり――全体に向けて「改めて」することは多い。

 こういう時に表情筋の硬い主宰もいかがなものかと思うが、それはご愛敬。「今日もお集まりいただきありがとうございます」から文芸会を始めるのは、そんな事情で照れくさがる自分のリハビリのようなものなのだ。