日用品としてのアイデンティティー(担当:チューハイ)

皆さんどうもこんにちは、風前会のひよっこ、チューハイです。

 

唐突ですが、アイデンティティーという言葉をご存知でしょうか。    

 

きっと誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。意味をざっくり説明できる人も、結構いらっしゃるかもしれません。  

 

不肖チューハイは某大学の帝王学専攻クソ学生でして、心理学にも哲学にも明るいわけではありません。アイデンティティーを正確に理解しているかと言えば、あまり自信がありませんが、ここでは、アイデンティティーという言葉を、「自分自身を説明する要素」として、お話をさせていただきたいと思います。結局パチもんの講義です。お気楽に聞き流してください。 

 

自意識の強い人と弱い人とがいますね。割と振る舞いで見分けがつきます。    

自意識の強い人は、好き嫌いや所属団体、様々な自分を取り巻く要素から「自分像」を作って、それを意識しながら生活しています。  

また、自分像を実現するために、自分の立ち居振る舞いを自分像に寄せるよう気づかいます。  

他人にも自分像を表現して、評価されたいという欲求が起こるので、それが押しつけがましい人は煙たがられたりします。  

悪気はなくても自分にこだわりがあるため、人からのアドバイスを聞けないこともしばしばです。    

 

自意識が低い人は、その反対です。人から何かを言われると、とてもよく聞き、反論すらしないこともままあります。  

 

あまりに理不尽なことを言われれば別でしょうが、そこそこ納得できることならふんふんとうなずいたり、ふーんと上手に聞き流してしまいます。  

 

また、イメージ作りを特にしないことも多く、自分自身をどう思ってほしいか、自分自身がどうありたいかというセルフプロデュース意識がほとんどなかったりするため、本当にその場で行動したいように行動したりするので、服の趣味が割とすんなり変わったり、趣味もばらつきがあったりします。  

一見素直でよさそうですが、自分の方向性を打ち出せない部分があるので、簡単に言うと、キャラブレが起きます。  

 

自意識の強い人と弱い人とでは、同じ行動をしていても、それまでの過程が違ったりします。  

 

例:会話の中で頻繁にキツイ言葉を使う人

 

     自意識の強い人… 「正しいと思ったことは言っていい」、「私は人に嫌われても気にしない」、等の、その言動を正当化する主義をアイデンティティーの一つとして組み込んでしまって、それに寄せた行動をとろうとするからキツイ言葉をかける。言ってしまえ ばキャラづくりの一環。   

 

     自意識の弱い人…本人の中では何も起こっていない。ただ本当にそう思ったから、そのまま口に出しただけ。ただ単に気にしていない人か、もしくは、普段から口が悪いだけということもある。

 

自意識の強い人が考えてる人で、自意識の弱い人が考えない人というわけでもありません。あくまでその行動に、自分らしさに対する自覚がどれだけ影響を及ぼしているかという話です。  

ですから、なにか自分なりの哲学をもって、本当に正義心から、よかれと思って人にキツい言い方をする方(本当にこういう人もいらっしゃるので世界はひろいものですが)は、例外です。

 

はてさて、偉そうにぺらぺらと書き連ねてきてしまいましたが、そういう私はと言えば、典型的な自意識の強い系ウーマンです。悪い見本と言って差し支えないでしょう、アイデンティティー失敗談だけで三時間は語れます。

しかも調子乗りなので、ちょっとした好き嫌いまで自分のアイデンティティーに組み込みたがり、一時期は本当にこだわりまみれの自縄自縛人間になっていました。

 

今でもある程度その辺の気がありますが、いろいろあって緩和もされました。

自己矛盾にもある程度寛容です。それでも小慣れるのに二十年を要しました。 他人の自意識にも異様に敏感になるし、めんどくさくて仕方がありません。あーあ、タフでよかった!!タフ万歳!!    

 

ここでタイトル回収をさせていただきたいと思います。 「日用品としてのアイデンティティー」。そうです。アイデンティティーは、全部が全部、重たく尊いわけではないのです。アイデンティティーにがんじがらめになったしくじり先生として、だからこそ、アイデンティティーとの上手な付き合い方とちょっとした工夫を、無責任にお話しさせていただきたいと思います。

 

新しい環境に入って、ゼロから人間関係を築かなければならない時、あまり目立ちすぎることも問題ですが、まったくコミュニケーションを取らず引っ込んでいるのも後々輪に入れず苦労をします。 自分から話しかけたり会話に参加するのが苦手な引っ込み思案な人は、その日一日だけ、『自分はひとに気楽に話しかけることができる』と思い込んで、もう一人の自分として頑張ってみるのも一つの手です。  新しい環境ですから、それが「らしくないこと」だと知っているのはあなただけです。無理のない範囲で、ちょっとだけ自分自身に対する認識をずらして、別の自分として最初の一歩を踏み出してみれば、そのプレッシャーも幾分かましになるでしょう。    

 

また、集団帰属意識をあえて持ってみることも楽しい事です。体育祭や文化祭等、一致団結系のイベントにあまり興味が持てなかったりするときも、自分のチームやクラスの成績を自分のもののように認識するようにしてみれば、無理に一生懸命にならなくても、周りが頑張っているのを応援する気持ちは生まれるので、気分だけでも盛り上がれます。興味なさそうに何もしないよりは、興味持ってる風にしていた方が、サボりもバレにくくなり、一石二鳥ですね。  

 

セコくてよいのです。参加したくなればちょっとしたことを手伝ってみようかな、位でも大丈夫なのです。自分に都合よくまいりましょう。    

 

アイデンティティー過多でお疲れの時は、何も考えずに直感的に、予算だけ決めてお買い物でも行きましょう。一番欲しいと感じたものを素直に買うことが肝要です。そこで新しい趣味や嗜好に気づけるかもしれません。自分探しの旅ならぬ自分探しの買い物です。  

 

休日に限っていつもと真逆だったり絶対にありえない格好をして遠くの街に遊びに行くのもありです。ヘアチョークなどで一日髪を染めて、アイデンティティーと真逆のことをして遊んでみるのも一興です。たまの贅沢です。「自分」という自意識強めの人にとって何より重たい荷物を、休日くらいは下ろしましょう。

 

自分を決め込んで内向的になることもつまらないものですが、全く何の意識もなく外にばかり向いていて振り回されてばかりも、結局は充実感に乏しいものです。 人生は一度きりですが、変更はいくらでも可能です。  

 

私はこういう人間だからこういうことはできないとか、私はこういう人間だから死ぬまで一生こうなんだとか、私は自分がわからないからいつまでもフラフラしてばかりでずっとこれからもそうだとか、私はこうあらねばならないからずっとそれを演じるしかないんだとか、そんな思い込みで変になってしまうくらいなら、一日くらい、数時間くらい、一瞬くらい、違う自分気分になってみたっていい。  

 

そんな気楽なテンションで、社会に踏み出すその一歩を、大学で歩くその一歩を、年を食っていくその一歩を、できうる限り軽くしたい、そんな逃げの姿勢で今日も元気に参りましょう。  

 

長々と失礼いたしました、ご清聴どうもありがとうございます。